「善く生きる」こと

最近、「善く生きる」ことについて、同じ想いで話せる方と出会い、この言葉について考える機会がありました。

そこで、ぜひ皆さまにも一緒に考えていただきたいと思い、今回は「善く生きる」ことについて、心理学ではなく哲学的ではありますが、とても大事なお話をさせていただきたいと思います。

実は「善く生きる」ことは、哲学者ソクラテスが生涯をかけて貫き通した姿勢であり、生き様そのものであります。
ソクラテスは生涯をかけて「『徳』とは何か」を追求し、『思慮』『節制』『敬虔』などが『徳』であることに触れながらも、『正義』がそれらの根底にある重要な『徳』の本質だと考えていました。
つまり、「善く生きる」こととは「正義(ただ)しく生きる」ことにほかならず、人は「正義しく生きる」ことによって「善く(幸福に)生きる」ことができると考えていました。

そのことを追求するために、弟子たちおよび「自分は何でも知っている」と思っている、ソフィストたちと問答を繰り返して対話を行いました。
その際の問答法は、決して自分の知識をひけらかすようなやり方ではなく、むしろ「自分は無知であるから教えてほしい」という姿勢で行われ、また何かを言わせるために尋問するのではなく、相手から引き出すようなやり方で進められて、ついには相手を論駁してしまうのです。

この質問方法は、認知行動療法において有効な質問方法として「ソクラテス式質問法」とか「ソクラテス問答法」と言われていますが、現代的な言い方にすれば「ガイデッド・ディスカバリー」とも言われ、誘導しながら発見していく方法として、認知行動療法の特徴の1つとされています。
(私の中では、認知行動療法の中で「ソクラテス」に出会えたことは、運命的でした)

話は「正義しく生きる」ことに戻りますが、「ソクラテスの正義」とはどんな正義なのか、弟子であるプラトンが著した『クリトン』(ソクラテスは自身で著書を残していません)から具体的に説明してみましょう。

ソクラテスは上記のような問答法で対話をして、「自分は何でも知っている」と思っている人たちを次々と論駁していくので、ついには恨みを買うことになり、裁判にかけられて、死刑の判決を受けてしまいます。
当時のギリシャでは、死刑判決を受けても看守にこっそり大金を払えば逃げ出すこともでき、国外追放にはなりますが、死刑は免れることはできました。ですので、友人であるクリトンはソクラテスをなんとか救い出そう(その気にさせようと)、説得を試みるところから対話が始まります。

クリトンはこのように「正義」を考えています。
・ソクラテスを救出しなかったら、友達よりも金銭を大事にしていると世間から非難されるので「きみを救い出すために危険を冒すのは、僕たちにとって正義しいことなのだ」(世の中の習慣に合わせることが正義)
・ソクラテスは助かることができるのに、自分を見捨てようとしている(お金を出す申し出を断ろうとしている)行為は正義しくない。
・自分だけでなく、子育てをも放棄して、ソクラテスにとってただ安易な方法を選択しているにすぎない。

「クリトンの正義」とは、古代ギリシャの伝統的な正義(大衆の正義)で、すなわち金銭よりも危険を冒すよりも友達を大事にし、さらに敵から自分と自分の家族を守ることを重要とし、そして有能で勇敢に振舞うことでした。

不思議なのは、古代の話なのに、クリトンの考え方に違和感がない、つまり「古代の正義」は「現代の正義」と類似しているのです。
すなわち、古代においても現代においても「一般的な正義」とは、「世の中」の多数の声が基準となったり、時代背景や状況に応じて基準が多様化したり、立場によって基準が変わったりするものなのです。「勝てば官軍」、そのとおりなのです。

一方、ソクラテスは対話の中で、「クリトンの正義」に同意しながらもこのように言っています。
「子どもたちのことも、生きることも、その他のどんなことも、正義よりも大切にすることがないようにしなければならない」
「一番大事にしなければならないのは、生きることではなくて善く生きることだ」
「ぼくたちが考慮しなければならないのは、大衆がぼくたちのことをどのように言うことになるかではなく、正義しいことと不正なことについて知っているただ一人の人がどう言うか、すなわち真理そのものが何と言うかなのだ」

ついに、クリトンも「正義しく生きる」のでなければ「善く(幸福に)生きる」ことができないということに同意をします。
しかし、ソクラテスは、これに同意する人間はむしろ少数であること、これからも少数であることを付け加えて、次のようにクリトンに念を押しています。
「不正をなすこと、不正をし返すこと、そして害悪を加えられた時、自分を守るために相手に仕返しの害悪を加えること、これらはいずれも、いついかなる時にも間違っている」

つまり、「ソクラテスの正義」とは、大衆の正義とは異なり、普遍的な理性としての『徳』を指しています。
どんな状況であっても、「不正をしないこと」が「正義」なのです。

 

また、ソクラテスは無実なのに、なぜ間違った判決(死刑)を受け入れることが「正義しい」と思ったのでしょうか。
この辺りの経緯から、ソクラテスは「悪法も法なり」と考えたという間違った解釈が流れてしまいました。
実は、このように考えていたのです。

「人間にとっていちばん大切なものは徳であり、正義であり、したがってまた、法に従うことであり、国法である」
つまり国家・国法との契約を守ることが正義だと考えています。

しかし、国法は自分にこう言うだろうと言っています。
「今、お前(ソクラテス)がこの世を去るなら、お前は不正を被った人間(犯罪人)として去ってゆくことになるだろう。しかし、それは私たち法による不正ではなく、人間たちによってなされた不正にとどまるのだ」

つまり、(正義しい)法に従っても、人間たちによって不正に使用されれば不正義なことが起こると考えており、今まさに人間たちによって不正義が起きていることを感じながらも、ソクラテスは国家・国法との約束を守って自身の「正義(死)」を果たしたのでした。

 

「来談者中心療法」の祖である C.ロジャーズは、カウンセラー(セラピスト)の人間的成長に重きをおいています。
カウンセラーであり続けることは、ソクラテスのように普遍的な「正義しさ」を持つべきであり、人間としても、カウンセラーとしても「善く生きる」ことこそが、私の生涯をかけた言葉となっています。